葛城町について
イメージ1
私が子供のころには周辺にまだキジや野ウサギがいるまさしく山でした。
昭和42年、株式会社中井総組(本社尼崎市)によって八田町、土生町、上松町、福田町などにまたがる丘(実際はみかん山とため池だらけの山で、掘ったり埋めたり造成は大変であったと中井惣の部長が言っていました。)の上に造成された岸和田グリーンハイツが町名分離して現在に至っています。(実際の町名分布は土生町、作才町、畑町、上松町、下松町の飛び地が入り交じった土地であったらしいが、八田団地と電柱に町名プレートが残っています。)葛城の名前の由来は、葛城山とも隣接する岸和田市立葛城中学校(土生町)とも大植会葛城病院(真上町)(そんなわけない?)とも言われています。戸数約400、閑静な住宅街とテレビ岸和田のキャスターさんが評していました。

そもそもこの地は中心に門前葛城線(門前町の泉光寺裏から福田町の山側、土生瀧へ続く古い道)が通り、この道の北側が主に門前町(上松町)、南側が土生新田町(土生町)の畑地であった。(古地図などから)

昭和42年の造成中の岸和田グリーンハイツ(中井総組提供)
左奥の葛城中学校から旧葛城町会館を通る道が現在の門前葛城線
未舗装でしたが、福田、土生瀧方面に続く。

造成中の葛城町公園

造成後の葛城町公園。現在の公園はさらにかさ上げされ、
広くなっています。

遊具がたくさんありました。

氏地としては・・・
西暦 700年頃〜  意賀美神社(鎮座西暦710年)  
西暦1000年頃〜  土生神社(鎮座西暦1090年)  
西暦1400年頃〜  岸和田天神宮(鎮座西暦1362年)
(土生神社由緒などから)

八田町からの進入路が出来る前後の葛城口からの様子
現地説明会には、塔原線のバスから畑の中を歩いて。

上の場所に、現在の進入路ができたころ。
この道ができるまで、グリーンハイツは、南掃守の光明小学校区と
されていたそうです。(当然、矢代寸神社とは無関係)

かつて葛城町子供会は、真上町町会に頼んで、
祭礼に参加していました。法被は真上町のがらですが、
襟には「葛城町子供会」とされていました。
そのためか、葛城町は矢代寸神社の地区と間違われることが
今でも多いです。

稲葉西から購入直後の先代地車です。
鬼板の紋は稲葉菅原神社の梅鉢のままで、
あぜくら寄贈の吊り下げ旗の紋も、それにあわせて
最初は梅鉢でした。

修斉地区へもどる


ホームへもどる


MailBox kuzuwaka@hotmail.com